新潟大学 古文書・古典籍コレクション データベース

中野家文書解題

越後国刈羽郡堀村(現在柏崎市堀)の名主中野家の文書である。 近世の名主文書、近代の戸長文書、および家の経営に関する文書など、総点数2,772点の地方文書である。

近世の堀村は、天保年間の石高515石余、家数76軒の村であった。 「白川風土記」によれば、村内の山谷新田は南下村の次郎兵衛の開発し、天和年間に1村となるが、無民家で 堀村が耕作したという。この地域の近世中期以降の支配関係は、高田藩(元禄14年~寛保元年)→白河藩 (寛保元年~文政6年)→桑名藩(文政6年~幕末)である。白河藩では、寛保2年に刈羽五組制度が成立した。 これは、刈羽郡を五組に分け、各組に大肝入りを置く行政制度である。このうち、堀村は上条組下組に属していた。

中野家は、堀村で近世初期から庄屋を勤めた。 (資料E-36) 近世期の庄屋としての文書は租税関係の帳簿類や各種訴願文書が多い。

明治になると、堀村は柏崎県に属した。柏崎県では、明治5年戸籍法が施行され、庄屋の名称は戸長と改められる。 明治6年7月柏崎県が新潟県に統合されると、新潟県では全県で23大区(同9月には25大区に改正)の大小区制が敷かれた。 堀村は第五大区小二区に属している。各小区には戸長が置かれ、各小区は各組に分けられて、それぞれに用掛が置かれた。 のちに戸長の名称は小区長に、用掛の名称は戸長に、それぞれ、改められる。 さらに、明治9年7月、相川県を合併すると、新潟県は区戸長制の改革に取り組み、小区長を廃止して、正副大区長を新設している。

その後の堀村は、明治22年の市制町村制施行にともなって、近隣6ヶ村を合併して豊田村となった。 新潟県では明治34年に再度、大規模な町村合併が行われ、豊田村は日高村と合併して高田村となっている。 高田村は昭和30年に柏崎市に吸収されるまで存続した。(下記参考資料参照)

この地方自治制度の揺籃期において、中野家は戸長→用掛→戸長と、七番組(堀村)の長を勤めており、 明治10年代の戸長事務引き継ぎにあたって文書目録も残されている (資料E-62)。 その他に、戸長文書では、大正9年に村政関係する書類を整理して、綴を作成しているのが特徴である。

これら名主文書、戸長文書の他に、商業経営に関するものなど中野家の家の私的な活動にかかわる文書も数多い。 大正末期より昭和初期にわたる高田村学校統一問題にかかわる新聞記事の切抜き等も残されている。

文書の組織体として「庄屋」「戸長」「用掛」「家」という項目を設けた。 これらは分類フィールドから検索が可能である。

なお、中野家文書は、当初、新潟大学人文学部農村社会研究室で保管されていたが、昭和61年に附属図書館に移管されている。 目録は昭和47年に農村社会研究室で作成した冊子体の仮目録(『史料目録』第2号)が存在するが、データベースを公開する にあたり、データ記入項目を検討し、1点ごとの整理作業を行った。


参考文献

[中野家文書関連の自治体史]
・『新潟県史』(新潟県 , 1980-)
・『柏崎市史』 市史編さん委員会編著 (柏崎市 , 1990-)
・『柏崎編年史』 新沢佳大, 前川禎治編著 (柏崎市 , 1970-)

参考資料

堀村近隣村の町村合併推移

時期 村名
明治9.5- 第六大区
小二区(上方村,下方村,横山村,堀村,藤橋村,南下村ほか)
第六大区
小三区(新道村,大河内新田,貝渕村,黒滝村ほか)
明治11.7.22- 上方村,下方村,横山村,堀村,藤橋村,南下村 新道村,大河内新田,貝渕村,黒滝村
明治22.4.1- 豊田村 日高村
明治34.11.1- 高田村
昭和30.2.1- 柏崎市に吸収

*『柏崎編年史』上巻 (柏崎市, 1970) より作成。

近代行政制度の変遷

時期 役職名
明治6- 大区長   戸長
明治6.8- 大区長 戸長 用掛
明治9.1- 大区長 小区長 戸長
明治9.7- 大区長 副大区長 戸長
明治17- 大区長 連合区長 用掛